ラ・ママ 詳細記事

(The Yomiuri America 2002年1月1日新年号 

第2部12、13面大塚 良美)

●2009 NY "Hamlet" of Company EAST:

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★ラ・ママからの「招待状」(Invitation)

『ハムレット』宣材写真

★アルバム:Medea "(EAST NY 2007

NYが舞台、実験劇場40年のドラマ
演劇人の登竜門 ラ・ママ実験劇場
東京キッドも寺山も

大塚 良美(The Yomiuri America 2002年1月1日新年号 第2部12、13面)

 ニューヨークでオフオフ・ブロードウエーの先駆けとなった「ラ・ママ実験劇場」が、40周年を迎えた。アメリカにまだ、商業ベースの劇場しかなかった1960年代、ニューヨークのアンダーグラウンドに渦巻く若手芸術家の才能と情熱がここから芽を出し始めた。アメリカで日本の演劇が受け入れられなかった1970年代に、劇作家、寺山修司や東由多加率いる東京キッドブラザーズの公演を実現。これまで日本の80プロダクションがここの舞台を踏み、日本の演劇界にも多大な影響を与えてきた。

■67年から非営利運営
 若手芸術家の登竜門「ラ・ママ実験劇場」

ニューヨーク市イーストビレッジに、レンガ造りの4階建ての建物がある。ニューヨーク演劇界に革命を起こした「ラ・ママ実験劇場」だ。商業ベースにのらないが芸術性が高く先見性のある数多くの作品を公演。ここからデビューし世界に羽ばたいた有名人は数知れない。
 しかし、同劇場創設者エレン・スチュワートさんは、「彼らの名前だけを出すことはできない。有名かどうかは大切な問題ではないので、数人の名前を列挙するならラ・ママに関係したすべてのアーティストの名前を出すべき」と言う。ブロードウエー・ミュージカル「ヘアー」の演出家、トム・オホーガンが劇場の引っ越しを手伝ったり、ロバート・デニーロが資金難に陥った同劇場の救済のため率先して資金集めの運動をしたり、同劇場に深くかかわっている。
 アメリカ人ばかりではない。演劇実験室「天井桟敷」主宰者で劇作家の寺山修司がアメリカ初公演を実現、「東京キッドブラザーズ」の東由多加もここで名作を生んだ。また、79年5月に安部公房が「仔象は死んだ」を、92年に倉本聰が「今日、悲別で」、97年2月に堤春恵が「仮名手本ハムレット」を公演した。

■芸術支援活動を続けて40年
 

 同実験劇場の1階ロビーには、過去40年に上演された作品のポスターや写真などがずらりと並び、歴史の長さを伝えている。その奥には90人収容の小劇場。3階にはクラブ・スペース、地下1階には、演劇界の貴重な資料が眠る「ラ・ママ・アーカイブ」。隣は約300人収容のアネックス、グレートジョーンズ通りには、リハーサル専用の7階建てビルも有している。公演にあたり、施設、設備費などは徴収せず、ボックスオフィスや照明機材なども提供し、身ひとつでニューヨークに来た人が明日からでも舞台ができるようなシステムが整っている。
 「芸術はすべての人に与えられた平等の権利であり、ラ・ママはその表現の場と時間を提供している」というエレンさんの言葉通り、利益を追求せず、すべての芸術家にチャンスを与えている。
 アメリカだけでなく、これまで世界約70か国から芸術家が訪れ、現在まで1900作品が公演された。言葉が違っても役者と観客が一体となる喜び、舞台から得る感動、衝撃は世界共通。芸術は国境や人種を越えることを、この劇場は教えてくれる。

■無名芸術家に「場」を提供
 ラ・ママ誕生

 

 ラ・ママ実験劇場は1961年、「カフェ・ラ・ママ」として誕生。きっかけは、エレンさんの義兄が芝居の脚本を書いたこと。当時、ニューヨークで舞台といえばブロードウエー、しかも白人で固められた閉鎖的な世界。黒人が作る舞台を上演するチャンスなどない時代だ。「それなら自分でスペースを作ればいい」と、エレンさんは、自ら劇場を作ろうと考える。
 ニューヨークの高級デパート、サックス・フィフス・アベニューで、黒人で初めてエグゼクティブ・デザイナーに起用され8年間働いたエレンさんは、その時に貯めた資金を元手に、イーストビレッジ東9丁目に「カフェ・ラ・ママ」を誕生させた。街にポップアートがあふれ出し、やがて前衛劇が花開く気運があったニューヨーク。その流れにのって「カフェ・ラ・ママ」はたちまち若手芸術家の集まる場所となり、週1回のペースで作品が上演されるようになった。
 ところがこうした前衛劇はまだまだ一般的には認められず、無免許営業など、さまざまな理由で営業停止となり、エレンさんは留置所で数日間過ごしたこともあった。
 しかし、「やりたいことがあったら、それを実現するための道を一生懸命探すのよ。ギブアップなんて、私は絶対しない」と、劇場をあきらめようとはしなかった。その後、4回の引っ越しで今の東4丁目のビルに落ち着き、64年に「ラ・ママ実験劇場」に改名し、67年から非営利団体として運営。エレンさんは、演劇界のママと親しまれている。

■日本のアングラ劇にスポット
 寺山修司、東由多加の思い出

エレンさんが実の子供のようにかわいがった息子の中に寺山修司や東由多加がいる。エレンさんは、「テラヤマは、とてもエレガントで静かでハンサムだった」と、66年に初めて会った時の印象を語る。「背を高く見せたかったからか、いつも厚底ブーツを履いていたわ」
 元天井桟敷の団員、東由多加が、東京キッドブラザーズを結成して同劇場を訪れたのは70年。ミュージカル「ヘアー」のプロデューサーが、日本人のブロードウエー・ミュージカルを作ろうと、日本から東京キッドのメンバー18人を招いたという。結局、ショーはキャンセルになったが、メンバー18人は日本に帰らず、そのままニューヨークに残り、エレンさんの部屋で下宿生活を始めた。「ここにメンバー18人が下宿したのよ。ごはんをたいて炊事して、メンバーはそこで寝起きしてたわ」と年季の入った床を指差した。
 世界各国の調度品やお土産品で埋った20畳分ぐらいのエレンさんの部屋。「この場所で『黄金バット』の脚本が生まれたのよ。丸テーブルの上で、彼らは脚本を書いていた。そのテーブルはだれかのたばこの消し忘れが原因で、今は燃えてなくなってしまったけど。本当にたくさんの冒険があった。18人がここで生活していたのよ。それだけで冒険でしょ」。こうして誕生した「黄金バット」は、ニューヨーク・タイムズ紙から絶賛され、大成功を収めた。
■ラ・ママが目指したこだわり空間
 74年、東京キッドブラザーズが「ザ・シティ」を公演した時のこと。「小劇場に、今まで見たこともないような大きなバイクを天井からつり下げていたことがあったの。びっくりして『ヒガシあれは何? きっと落ちるわよ』とハラハラしたことを思い出すわ」。当時英語が話せたメンバーは一人もいなかった。それでも「彼らは英語はしゃべれなかったけど、まったく問題はなかった。お互い見つめ合って笑う、それだけで意思の疎通はできたのよ」

「テラヤマは英語がわからないふりをして、通訳を介して役者に指導していたよ」と思い出を話すのは、資料室の責任者であり舞台の演出家でもあるオージー・ロドリゲスさん。友人の紹介で、最初は役者としてラ・ママのドアをたたいた一人だ。70年7月に公演された寺山修司の「毛皮のマリー」に出演したこともあるという。
 同作のけいこ中、水が入った巨大な水槽の中で、自由に演技するように求められたことがある。寺山の思い描いているような演技をしようと、一生懸命手足を動かした。「テラヤマは、『すばらしい。だが、もっと大きく』と注文をつけた」という。「『もっと大きく』という意味が私にはすぐにピンときた。国が違っても私たちは一演劇人として理解し合えた」
 こんなエピソードもある。寺山が舞台で「500匹のチョウを飛ばすと言い始めた。「この冬の最中、500匹もどうやって集めるのか」とオージーさんたちが驚いて聞くと、「今から幼虫を育てるしかないな」と言って周りを笑わせたという。「結局作り物のチョウを使ったけど、美しい舞台のセットや構成など、私は舞台というものをテラヤマから学んだ」

■奇才の足跡、資料館に保存
 貴重な資料が眠るラ・ママ・アーカイブ

オージーさんが管理するビル地下の「ラ・ママ・アーカイブ」には、寺山修司がエレンさんにあてて書いた直筆のメモや手紙、公演パンフレット、81年、東京キッドブラザーズ「SHIRO」の公演で同劇場の舞台を踏んだ柴田恭平がインタビューに応じているビデオ、「シティ」の舞台模型のほか、これまで同劇場で公演された作品の映像、写真、メモ書き、プロダクションのファイルなど、歴史的資料が数多く眠る。
 ここは87年まで劇場スペースだった。建物の構造上、地下を劇場として維持することが困難になったため、そこを資料室に変えた。天井まで高く詰まれたビデオテープに、ファイルの山。写真や新聞の記事、パンフレットから公演のチケット。舞台で使われたセットの一部が並べられ、そこにいるだけで舞台の熱気、役者の息遣いが感じられるような場所だ。
 アメリカだけではなく日本の演劇史を語る上でも大切な資料を保存するこの資料室は、教育目的で演劇を学ぶ学生や研究者、アーティストなどに予約制で開放している。「待たされることなく、来ればすぐに貴重な資料が手にとって見られるのがここのいいところだよ」とオージーさん。
 2002年6月には、日本人パフォーマーの回顧展がラ・ママ・ギャラリー(東1丁目6番地)で開催され、同資料室が保存する寺山と東の公演秘蔵映像、オリジナル公演ポスター、エレンさんにあてた直筆の手紙などを無料で一般公開。当時の舞台セットを復元するなど、日本前衛劇の成り立ちと変遷を見直す。
 しかし、今この資料室が抱えている問題がある。それは、70年代に撮影した舞台の8ミリフィルムの劣化。早急にデジタル化しなければ、価値ある映像も二度と見られなくなるという。そのため、同劇場では、フィルムのデジタル化に必要な資金援助、また必要な機材を無料提供して欲しいと呼びかけている。

■「演劇には興味はなかった」
 

 67年から非営利団体として、州や市の助成金、個人や企業の援助で運営されているラ・ママだが、運営費を賄うのは容易ではない。「BAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)が年に300万ドルの助成金を市からもらっているのに対して私は8万ドル。40年これでやってきたのよ。でもBAMと同じくらいの評価を得てきた」とエレンさん。「私は黒人でしかも女性。でも、社会のマジョリティーに合わせるために自分を変えることはできないでしょ」
 どんな困難に見舞われても「一度も劇場をやめようとは思わなかった」とそのパワーで前進してきたエレンさんだが、「悲しみで心が砕けそうな時期があった」という。それは、実の息子と東由多加、2人の最愛の人が続けて他界した時だ。
 東が病気になったという知らせを受けたエレンさんは、その翌日、東京に飛んだ。「エンレに会わずには死ねない」という東を見舞い、最新の医療技術があるニューヨークでの治療を勧めた。一度はニューヨークで療養したが、結局日本に戻った東を、「あのままここで治療を続けていれば」と悔やむ。東は2000年4月、食道がんでこの世を去った。「しかし、私たちには黄金時代もあったわ」と色あせない思い出を、まるで昨日のことのように語る。
 東や寺山同様、この劇場からは、たくさんの子供が世界の舞台へ巣立っていった。劇場ビルの5階にあるエレンさんの自宅には、朝晩時間を問わず、世界中から引っ切りなしに電話がかかってくる。エレンさんは鳴った電話は必ず取る。それが、外国にいる自分の子供からだと知っているからだ。「私は演劇には興味はなかった。人に興味があった」。国も文化も違う人間が、お互いを尊重しながらひとつのものを作り上げる。人間そのものに対する愛情が、この劇場を支えているのかもしれない。


 

Photo(左より):EASTの芸術監督の「かわらさきけんじ」。篠田正浩監督の最後の映画『スパイゲゾルゲ』でモックンの相手役の女優の MIA YOO(アメリカ人ジャーナリスト役)、ラ・マンマの主宰者のエレン・スチュアート。そして、素顔の神ひろし。

アネックス劇場図面

メル・ギブソンの映画『パッション』で、イエスをむち打つ役人役を演じたイタリア人俳優のDARIO D'AMBROSIとヒロ。ダリオはpatologicoと言うグループを率いるイタリアの代表的アーティスト!

   

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